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虐殺、拷問・・・カンボジアの闇の歴史。





今回はちょっと重~く、そして結構長~い話しになります。


気がしずみそうな写真ものせるから、嫌な人は見ないでね、、、


といいたいところだけど、もしこの歴史的惨劇を知らないのであれば


是非見ていってほしいな。


まずは、この人をご存知でしょうか?





何の特徴もなさそうなこのオッサンの名前は 『ポルポト』


今日書く話の主人公。


今から30年ちょっと前のこと、今のカンボジアはこのポルポト率いるクメール・ルージュに支配された『民主カンプチア』という名前だった。


このポルポト政権が始まってから、ベトナム軍とカンボジア救国統一戦線(ベトナムに亡命した反ポルポト派)に解放されるまでのたった4年間で、なんと総人口800万足らずのうち、200万から300万近くのカンボジア人が虐殺された、、、。


人数は正確には今もわからないらしい。


30数年前といえば、日本ではピンク・レディーが大旋風を起こし


世界ではパソコンが一般化されはじめたような時代。


後にも先にも、たった四年でこのような強制労働、大量虐殺、拷問、破壊、が行われた国はカンボジアを除いてどこにもない。



僕は何年か前にこの話を知って、カンボジアにきたら必ず行こうと思っていた場所があった。


『トゥールスレン刑務所』



今は博物館になっていて、当時の建物のまま、写真などが展示されている。


アウシュビッツや広島原爆ドームのような負の遺産の類だね。


プノンペンに着いた初日に行ってきた。













時間ないから後で読むって人は↓
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ここはポルポト政権時代に 無実の罪 で捕まった人達を収容するための刑務所だった。


当時は『S-21』とよばれていた。


もともとは高校だったみたい。















中に入り、建物をまわってみることにした。


"A"とかかれた建物にまず入ってみた。


入口に、喋るな!と注意書きがあったけど、ここで楽しく喋れる人なんかいないと思うけど、、、






各部屋には鎖がついたベッドがぽつんとあった。


ここは特別な牢獄だったみたい。








壁には発見当時だと思われる写真が一枚。







いろいろと、しなくてもいい想像をしてしまい、いろんな思いが込み上げて来る感じだった、、、。



何故なら、ここで実際に拷問、虐殺があったと思うとね、、、





外にあった『victim's graves』と題されたこの看板にはこんなことが書いてある。


『犠牲者の墓』


犠牲者14人の死体は、カンボジアの解放の為の救国統一戦線によって建物"A"から発見された。


犠牲者は、ここの反対側のプロットに埋葬された。


14人の死体の中には女性の犠牲者も一人いた。


これらは、S-21のエージェント達が刑務所から逃げ出す前


最後に実行されたものだった。





この刑務所には無実の罪で20000人も収容されたけど、生きて出れたのはなんと7人だけ、、、。


発見当時は最後に殺された14人の死体の他にも50人ほどの死体があった。






S21が生きては出られない収容所となった理由は


「収容された囚人は有罪と決まってる→拷問し嘘の供述をさせて処刑する→S21の拷問と虐殺が外にばれないように、何が何でも有罪にして処刑→さらに拷問が激化する」


この超悪循環があったそう。


理解に苦しむこのトゥールスレン刑務所とポルポト政権。


何故自分の国の人を殺す? この人達は何故捕まった?


と疑問が湧きまくりだと思うので、説明します。




まずはポルポト政権になるちょっと前の話から。


時代はベトナム戦争の頃。←これ大事


当時、この国のトップだった シアヌーク という人がいました。


彼はフランスに占領されてたカンボジアを独立させて国王になり、カンボジア王国をつくりました。


このカンボジア王国は『社会主義』だったんだけど、それをアメリカはよく思ってなかったんだよね。


カンボジア王国が出来てから、10数年後


アメリカと手を組んだ当時の首相が、シアヌークがいない間にクーデターを起こして政権を奪ってしまう。


そして国名はクメール共和国になった。


でもさらに数年後、アメリカがベトナム戦争に負けて完全撤退することになったと同時に、バックがいなくなった新政権はたちまち崩壊してしまった。



その頃、国民の支持を結構獲得してたのがポルポト率いる クメール・ルージュ だった。 。



そして1975年4月17日、 ポルポトは新しく政権を握り、4年間恐怖と殺戮がこの国を支配することになった。



この日、クメール・ルージュはトラックに乗って首都プノンペンに入って来た。


ついに、内戦が終わったと信じた国民は、彼らを笑顔で迎えたらしい。


でも、そのあと数日もしないうちに都市部の人達は、田舎へ移らされて強制労働させられることになった。


ほかの国からの支援がないもんで、ポルポトはすぐに食料確保したかったかららしい。







そしてプノンペンは人がいなくなり、工場、交通、店、何もかもストップし、ゴーストタウンと化した。


その時の写真も展示してあった。








そしてある日、その農作業をしている人達に知らせがいった。



「医者・教師・技術者・学生だった者は、国の再興を手伝ってほしい」



農作業から解放される!



と、該当する人々はみんな手を挙げました。


でも彼らを待っていたのは処刑


二度と帰ってくる人はいなかったそうです。


海外留学していた学生も、同じく呼び寄せられて殺された。


何故そんなことになったかというと


ポルポトが目指していたのは『 原始共産主義社会』


という社会。


超簡単に言うと、全て無くして原始時代に戻そうってもの。


病院も、学校も、通貨も、恋愛も、家族もすべて無くす。


めちゃくちゃ過ぎてもはや意味わかんないよね(^^;



反対するものはもちろん殺されたけど、真っ先に殺されたのが


先生や医師などの『反対勢力になりそうな知識人』


次第にエスカレートしていって


本を読んでた、旧貨幣を持ってた、子どもに教育した、腕時計をしてた、英語を話した、政府の悪口を言った


このような人もすべて刑務所に連れられて殺されました。


さらに


歌をうたった、恋人がいる、眼鏡をしている、イケメン&美女


全員殺された。


もうめちゃくちゃすぎて、今の日本だったらみんな殺されてそうですね、、、



ポルポト政権が言った言葉。




我々は独自の世界を建設している。
新しい理想郷を建設するのである。
したがって伝統的な形をとる学校も、病院も要らない。
貨幣も要らない。

たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
今住んでいるのは新しい故郷なのである。
我々はこれより過去を切り捨てる。

泣いてはいけない。
泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。

笑ってはいけない。
笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ





ポルポトは「悪い」思想に染まっていない13歳以下の子供達を社会の重要なポジションにつけた。


原始共産主義を理解してくれるから。


強制収容所の看守も子供、兵士も子供。


医師も子供だった。


子供医師の中には、字も読めないような子供もいた。


医療の知識もあるわけなく、消毒もせず注射をしたり、手術すら行うこともあった。


あとはご想像にお任せです、、、(^^;



ポルポトは密告制度を設けて、スパイも子供にやらせた。


ポルポト政権の不平や不満を聞いた子供が、通報したら身に覚えがなくても捕まって殺される。


捕まった人達は刑務所におくられ、自白するまで拷問される。


罪なのかなんなのかわからない事を自白させられ、殺される。


















自白させられたら、カンボジア国内に何カ所もある『キリングフィールド』へ連行されて、子供は木に打ち付けられ、大人は銃や棒で殴り殺され、穴に捨てられた。


↓キリングフィールド行ったときの記事。

カンボジアに初めて来て感じたこと









こうして子どもが大人を常に監視する世の中、 常識、理性などなにもなく、誰も信じることが出来ず、密告に怯える。


そんな社会になった。


国民の生活は、農作業など、ただ黙々と働き続けることだけだった。




そして、四年後。


ポルポトがベトナム領内を攻めて住民を虐殺したのをきっかけに、カンジアから亡命してきた人々が カンプチア救国民族統一戦線 という軍を作り、ベトナム軍と一緒にカンボジアに攻め込んだ。


子供兵士はあっさりやられてしまって、1979年に首都プノンペンが陥落。


これでポルポト政権の地獄のような四年間が終わったわけです。



その時のカンボジア国民の85%が14歳以下の子供だったそう。



ちなみにこれが2005年ね。






どのくらい異常なのかわかると思う(^^;




館内は当時の牢獄がそのまま残されてる部屋や、ここに収容されて虐殺された人達の顔写真がたくさんあった。


中には殺された直後の写真もあったけど、とても撮る気にはなれなかった、、、












写真ずらっと、本当たくさん並んでる。


それだけ多くの人がここで犠牲になったってことだね。






















今現在でも、当時身内の誰かを無くしてるって人はとてもたくさんいるみたい。


もちろんたった30数年前の話しだからね、、、。


当時少年兵士だった人達も今は50歳くらいのはずだよね。


少年兵の写真と証言もあった。











生き残った人達だって、いまは笑顔で話しかけてくれるトゥクトゥクのオッサンだって


心の奥そこには、ぜったい忘れられない当時の悲しみとかがあるんだよね、、、



出口付近には本物の骨がキレイに並べられてた。








何で今回ちょっと真面目に書いたかというと


そもそも何で負の遺産と言われるものがあるのか?


きっとこれを無くしたら、人間ってまた同じ事を繰り返すんだろうね。


それから、どうしてここまで残酷なことが出来たんだろうね?


答は"集団心理"というものらしい。


人間は集団になればこんな恐ろしい事でも平気でできるようになるんだね。


日本でさ、炎上だ!バカッターだ!


なんてネットやTwitterでビシバシ叩く人達を見てると、なんか似てる気もしないでもないよね。


日本でこんなこと起こるとは思わないけどね(^^;



それと、もともと僕は歴史的なことが好きだから、このことは知っていたけど


知らない人も、もちろんいたと思うんだよね。



それと、ポルポトが残したものの一つに『地雷』がある。


『完全な兵士』と称賛して、しかけまくった地雷の被害で手足がない人が多いのも事実。


当時の事を学校で習わない子供達が今でも被害にあうのもまた事実。


たった一人の危ない思想が渦巻くように国を飲み込み、集団心理で同士が同士を殺した。


結果たくさんの人が死に、たくさんの障害を後世に残した。


その上で今のカンボジアは成り立ってる。


この歴史を知ってここに来るのと、知らずに来るのはきっとすごく大きい差があるように思う。


今がいいとか悪いとかじゃない。


まずは知ることが大事だよ。なんでもそう。


知らなければ行動も出来ないからね。




調べたらもちろんいろいろ出てくると思うけど、まずはこの記事がひとつのきっかけになってくれて、カンボジアに興味を持ってくれたら嬉しいな(^^)


長々とありがとうございました★


今日も読んでくれてありがと!






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